日本語とUX

インターネット界隈、もしくはものづくりの界隈だと「UX」という言葉を日に数回聞いているかと思います。

このUX というものは曲者というか、何がどう違うんだ、そもそも何者なんだ?という疑問が多くあります。

私が考えるに、大体は体験を元に変化させようという動きであるほかなりません。

人の行ってきたこと、人が体験した上での理想の形を突き詰めていけば自ずといい形になっていくでしょう、という動きなんじゃないかと思います。多分。


この記事を書こうと思ったきっかけは「結局人生はアウトプットで決まる」という本を読んでいて思ったことを書こうと思ったものです。練習がてらの記事なので、猪突猛進的な内容なので、色々とご勘弁を。


UXというのを、言語を例にするなら、寒い地域に行けば行くほど言葉数が減るようなもののような感じでしょうか。

口を動かすのが嫌になる程寒いため、あまり動かさないで、意思疎通ができるようにしたい。

そういう人たちが、短い言葉で意思疎通が測れるような短い言葉や共通語が、地域限定の言葉<方言>になりつつあるのかなと思います。


もちろん今の新しい言葉なども、食生活の変化などから現代人の顎の形状も変化してきています。そこから言葉の変化が生じるなんてこともあるのかもしれません。略語が頻繁に生まれるのは現代人が顎が疲れるから、生み出したがっている、なんてことが学説上正しければ面白いですね。


私の昔話なのですが、以前祖母から「これけってきて」と言われたことがあります。

「け」という表現にはいくつか意味があるのですが、「〇〇をして」というニュアンスで使われている気がします。

実際この時のシチュエーションというのは、ゴミ袋を渡されて、「けってきて」と言われました。

真に受けて捉えるなら、ゴミ袋蹴飛ばす行為を求められているのですが、そうではありません。「捨ててきて」を「けってきて」ということでした。

意味は違いますが、同じ表現で、「食べろ」ということもあります。青森の津軽地方なんかで「け」だけで会話する様子が、昔「学校へ行こう」で映し出されていた気がします。


不思議なもので、言葉の形というのは、生活の中で日々変化していて、つい最近まで使われていた言葉がみるみる死語扱いされています。

死語扱いされるのは、古い考えだったり、人の生活が変化していく中で不要になったこと、無駄がより一層そぎ落とされ、最適化を繰り返す過程にも見えます。この過程を見ると、もしかするとUX改善を繰り返し、人が経験を軸として変化していく様が学べるかもしれません。そういった意味で歴史を通じて過程を勉強するのも大切なきも。。。します。


ただ言葉の乱れは風紀の乱れ、という方々もいるのでうまくはいかないもの。

新しいデザイン・UIを受け入れられないのは風紀が乱れたと思う心の現れなのかもしれないですね。


参考 Life is beautiful: LINK

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